影を殺せ!!

死ぬまで抜け出せない呪いもある

ヘイトやSNSや

ネット上での叩きや悪口が原因で命を絶ってしまったり心を病んでしまう人のニュースが取りざたされている。

 

わたし自身も身分をあかすことなくこのブログを書いているので、創作の話なのではないかと真偽を問われるのかも知れない。けれど匿名というやんわりしたクッションがあるからこそ書ける事でもある。

 

多くのSNS掲示板では匿名が基本だし、書き込んだ方はあくまでも「ネットの世界」で相手を叩くけれど、その悪意を見た相手は「ネットの世界」ではなくて「現実の世界」で傷ついている。

 

人を嫌いになったり不快な感情を持つ事って別におかしなことではないけれど、それを言うにあたって人として超えてはならない部分っていうものがある。絶対なんて言葉は好きじゃないけれど、これには絶対を付けたい。

 

そこまで言ってしまうと相手がどうあれ、人として貴方が疑われますよ。という言葉は使うべきではない。

 

場合によっては「そこまで言いたくなる気持ちも分かるよ」となるのだけれど、少なくとも実際に会った事のない人、自分に何か危害を及ぼしたわけではない人に対して、全てを否定したり不幸を望むような言葉を投げつけてしまうというのは、何が原因なのだろうか。

 

インターネット上の言葉って(特にツイッターとか)短い文章だからこそ、インパクトのある言葉を選びがちだ。


相手の心理にも配慮した文章作りをしていると長文になってしまうけれど、一言「死ね」と投げつければ簡単だ。

 

それと他のアカウントの発言をあたかも世論や社会的な流れのように見ていると、まるで自分は正義の味方の一員であって、みんなが言っているのだから・・・なんて思うのかもしれない。


お気に入り機能が付いていることで、沢山の人に認められたいという承認欲求が刺激されるのも頷ける。

 

自分を正義の側だと思うと、悪に鉄槌を下すのは快感で仕方が無いだろう。そして人としてのブレーキが壊れて止まらなくなる。

 

世の中には純粋な悪もあるのかもしれないけれど、多くの場合は何らかの理由や背景があって芽を出してしまった悪の種なのだと思うし、その人が見ているたった一つの面がその人物のすべてではない。

 

そんな当たり前の事すら慮れない人がなんと多い事だろう。考えられない程余裕のない人が増えているのかも知れない。ネットを使っている層はきっと若年層が多いのだろうけれど、大人になればそういう分別みたいなものも身について来るのだろうか。

 

なんというか、残念なことだなあと思わずにはいられない。

離れ離れてストレス

PCが壊れてしまった。謎の変換は調子が悪かったせいなのかもしれない。

 

コロナ禍だったこともあってやっとPCを手に入れた。

 

<余談>

投資で大損をした。コロナで馬鹿みたいに下がった保有株の損失を取り戻そうとして、むちゃくちゃな投資を行った結果、とんでもないことになってほうぼうの体で逃げ出したところだ。

 

実体経済と株価(特に指数とか225とか)の乖離はそもそも当たり前で、これだけコロナで影響を受けている企業も多ければ、来期以降の見通しが立っていないという会社も多い。それでも今のバカみたいな上げ方はなんなのだ、なんて思う。結局需要と供給みたいなものだし、カネ余りを起こしている今は余計にでもお金が流れ入るのだろう。

 

資産のほとんどを失い、それだけで自殺の要因になりそうな程バカな勉強代だったが、収入を大切にしてきちんと生きて行くことへの教訓だと思うしかない。

 

残ったお金でA5ランクのブランド肉を食べた。総ての損失をお肉代だと思う作戦に出たという訳である。(どうやらギャンブラーあるあるらしい)

 

美味しい・・・美味すぎるが高い・・・高すぎるお肉代・・・ご褒美でもないくせに・・・いや、今から絶対変わるんだ・・・もう投資なんてしないぞチクショー!!なんて半泣きで噛み締めた。

 

<余談おわり>

 

あれから何かが変わったと言われると何も変わってやしない。日々何とか頑張って生きよう、ここから少しでも良い自分に改善していくんだという気持ちと、それなりに生きて行くにはどれだけの努力が必要なんだろうというゾッとする気持ち、どう、なにを頑張ればいいと言うんだという苛立ち、頑張りたくないという甘えとがせめぎ合っている。

 

未だに変態教師の事は夢に見る。家族や通行人をニヤケ面で斬殺しながら、私を追いかけてくる。私は一生懸命逃げるのに、夢あるあるで走っても走っても前に進まず、飛び起きてしまう。

 

変態教師が母の頭をナタのようなものでカチ割った夢を見た。ひどくグロテスクであり、まるで現実に起こったかのようなリアルさで初めて過呼吸を起こした。

 

夢は記憶の整理だとか深層心理だとか欲望の権化だとかいうけれど、もしかしたら私は母に死んでほしいと思っているのではないかとも思い暗澹とした。また未だにそんな夢を見るなんて、私は実のところその時に自分が「被害者」という立場だったことを快感としているのではないかとさえ思う。

 

当時の私を檻の中の囚人と例えると、今の私は開け放たれた檻から自由に外に出られるというのに、中にとどまって相変わらず文句を言っているだけのような気もする。

 

今の私はもう大人だし、自立しているし、危難も去った。前向きにとか、将来の事を

とか、明るく生きるための要素がそろっていると思う。

 

それでも、どうしても、怖い思いをするのではないかと怯え、人に対して信頼の気持ちを持てない。最低な人間だと思うが、私にとっての良い人は、優しいとか心が落ち着くというよりは都合の良い人なのだと思う。

 

困っている時に話を聞いてくれる人が居たとして、それはすごく有難いし感謝すべきことなんだけれども、問題が直接解決するものではない。人に話すことで新しい視点を得たりすることで解決につながる事もあるので一概にそれを馬鹿にはできないのだけれど、多くの場合は武力や経済力によって解決することが多いと思っているから。

 

それから仕事なんかで同僚や上司との会話なんて9割9分9厘どうだっていいことだ。プライベートがどうだとか、〇〇さんはむかつくとか、もうほんとうにガッデム!という感じ。でもそれに合わせていないと村八分にされてしまうから、適当に合わせる。

 

仕事なんて自分の業務をこなす場所、活動だっていうのに、社内営業みたいなものが多すぎる。会社という小さいコミュニティのなかで自分が有利に立ち回るために、思いとは全く違う言動をする事は日常茶飯事だ。

 

だから私の想いという曲線と行動という曲線で合致するポイント見つからない。むしろ乖離が起きる事に対して、いつだって嘘を吐いて生きて居るような気がして、それがまたとてつもないストレスになる。

 

(私の株価は常に値が決まっていないというイメージ。気配だけうろうろ。ああもう投資の事なんて考えたくもないのに!)

 

そんなことを繰り返していれば自分の想いに対して疑心暗鬼にさえなったりもする。自分が嫌われたくないから、楽に仕事をしたいからという理由で決めた行動は、自分の責任ではあるのだけれど、まるでそう強要されているかのような気分になる。

 

せめて一生分遊んで暮らせるお金が手に入ったら・・・家に引き篭もってほとんど人と会わずに・・・ああ大学院へ行ってちゃんと勉強したい・・・はあ。。。

 

(結局投資の損失のダメージから回復できていない)

怒りのコントロール

薬を一切断ってからの私はずいぶんと丸くなった。腹が立つこともあるのだけれど、以前よりも怒りの出方がマイルドになった。

 

言い方やアプローチを考えて相手に伝えたり、あるいはその気持ちを無かったことにしたりと少しずつ工夫が出来るようになった気がする(希望的観測)

 

しかし火種となる怒りが厄介だ。父は相手が思う通りに動かないと相手を全否定するとか、母は良かれと思っている事を押し付けるとか、他人の事は散々悪く書いたのだけれども、私もその傾向にある。

 

相手を思ってしたことが、相手にとってはそんなに気になる事でも無かったとか、あとは思った様な反応を得られなかったりすると、どうしても腹が立ってしまう事がある。自分を否定されたような気がするんだと思う。別にそんなことないのに。

 

だから自分の目的は何だったのか、どうして腹が立ったのか、どうして欲しいのか、っていうことを整理して、数時間置いてから行動することだけは決めている。

 

当たり前なのだけれども、とても難しい。頭に血が上ると、どうしてもその怒りのパワーを取れたて新鮮そのままに産地直送してしまいがちだ。

 

なあんて御大層な事を書いたんだけれども、一昨日結構怒ってしまったんですよね。相手には何も言っていないので被害はないのだけれど、危うくキイイイ!!!ってアバレザルに変身するところでした。あれ、オコリザルだったっけ。

お母さんであり女であり

お母さんの事を想像するときってどんな姿なんだろう。

 

私にとってのお母さんは・・・とても複雑。でも一般的なイメージである「母親」とか「母性」とか「ママ」っていうよりは「女性」だ。

 

おしゃれな服を着て、髪を綺麗に整えて、お化粧をして。「貴女のママってすごい美人ね」という言葉は小さい頃からいっぱい受けて来た。ただその言葉は私にとっての自慢ではなくて「私は不細工なんだ」というマイナスの感情に繋がった。ああでもこれは同性の親だからこそなのかもしれない。大なり小なりどこの母娘でもそういうことはあるか、うん。

 

例えば私よりも間男を優先したこと、言う事を聞かないからと折檻したこと、そういう事を裏打ちするのが「お母さんは一人の女性」ということだ。

 

お母さんという最強の後ろ盾というよりは一番身近な女性という感覚。甘えられる存在というよりは、受け止めなくてはいけない存在。感情をあらわに出来る相手というよりは、同調し同情して理解を示さなくてはいけない相手。先人の知恵というよりは反面教師。言葉にするのは結構難しい。

 

私が母に甘えるといえば欲しいものを買ってもらうときくらいだったらしい。「貴女は欲しいものがあるときに調子が良くなるだけ!」ってよく怒られていたなあ。うーん、普通の母子関係だとどういう時に甘えるのかな。

 

学校で嫌な事があったときに話を聞いて貰うとか?

人生の岐路に立った時にアドバイスを貰うとか?

調子が悪い時に抱きしめて貰うとか?

 

あーあ。そういうの憧れる。学校や人間関係で私が困っていたとしても、それより家の中の方が厄災状態だったからそんな話をしたこともなかったし、例えば友達と喧嘩をしたという事が母の耳に入ったら、私の言い分を聞くこともなく怒られていた。

 

父への愛情と憎悪は私の想い通りに動いてくれなかった、約束を守ってくれなかったことに対するところに起因しているから割合単純なのだけれど、母とのことはもっとドロッとしていて複雑だ。

 

母は私の為という言葉を使っていろんなことを正当化してきた。

 

あなたが将来困らないように、歪んだ性格を矯正している

あなたにはヴァイオリン以外何もないのだから伸ばすしかない

あなたのためを思って〇〇してあげたのに!

 

それが私にとって有難迷惑だったり余計なお世話だったりしても、それは受け入れなくてはいけないものだった。随分ひどく怒られてきたし、心が引き裂けるような金切り声も怖くて仕方なかった。

 

外で見せる穏やかな笑顔の母、お稽古で関わるお母さんや生徒さんと関わっているときの優しい母と、家の中での鬼で悪魔の母は全く違った。怖い母は大嫌いだった。

 

それなのになんでだろうな。私が母の事を思い浮かべるときに真っ先に出てくるのは、体調を崩して寝込んでいる母だ。私をぶん殴り疲れて、(勝手にだけど)疲弊して泣いている母だ。

 

これはあれだね。DV夫婦でよく聞くことだけれど、相手の事を怖がっているし憎んでもいるのに、アタシじゃないと受け止められないのぉ・・とか言ってるケースそのもの。勘弁してくれよォ。

 

結構前に母と間男がいた時の話をした事があった。彼女はとても悔いていて、心から申し訳ないと何度も謝っていた。私は彼女の涙にとても弱い。そういう風にプログラミングされているのではないかと思う程に、戦意を喪失して何も言えなくなる。

 

間男のことなんかは母が大人として決めて、そのことで家族が巻き込まれたともいえる。(それまでの父のモラハラや私が扱いにくい子供だったことを端折ったから極論かな。)でも泣いて謝られると一気に母が被害者みたいだ。

 

「泣くなッ!」と声を荒げたくもなるのだけれど、経験則でそんなことは無駄だと知って居る。感情が高ぶると涙がどんどん出て来るそうで、態と泣いているわけではないらしいのだけれども、そういうところだよ、と思った。だから私は自分の感情をぶつけられない。悲しい事、怖かったこと、甘えたかったこと、俗にいう子供っぽい感情は抱いたところで無意味なんだ。

 

そういえば小学校の高学年の頃だったか、もののけ姫のモロに憧れていた。もとより動物が大好きだし、小さい頃から頭がファンタジーだったのかもしれないけれど、モロと子供たちが家族だったらいいのにな、なんて夢想していた。

 

家にある犬のぬいぐるみをモロに見立てて遊んでいたし、こっそりお母さんって呼んでいた。寝るときも一緒だったし、母に叱られて泣いている時にそばに居てくれるのはいつも犬のぬいぐるみだった。だから脳味噌がバグっちゃって、母を母と思わなくなったのだろうか。いやそこまで無茶苦茶ではないか。

 

母の事はなんだか書いていてとても疲れる。上手くまとまらない。心の余裕があるときにでも再度チャレンジしてみたい。

 

 

世の中はカネなのだろうか

「世の中に起きている大中小、有象無象の問題のほとんどはお金で解決する」というのは私の持論。

 

純粋な人の優しさとか愛情みたいなものもあるけれど、それはごく少ないケースであって多くの事は利害関係の上に成り立っている。だからこそ家族愛や友情モノの作品に人は感動するんだと思う。

7.禍根

今回で過去の事もひととおり書き終える。

 

今でも克服できていないのが摂食障害だ。私の場合は摂食障害のうち過食嘔吐といってバカみたいな量を食べては全部吐くというもの。20歳くらいのころに合併症のような形で出現して以来である。

 

独り暮らしを始めてすぐの頃には過食嘔吐と拒食がすぎてBMIが13くらいまで落ちていたので、体がエヴァンゲリオン初号機でありサキエルだった。一人初陣。今は16くらいを維持していて、ぱっと見「摂食障害だな」という体型ではない。

 

美容にこだわる年齢にありがちな、痩せたいとかダイエットというよりは、本能の赴くままに食べ物を詰め込んで一気に吐き出した時の満足感みたいなものが琴線に触れたんだと思う。

 

食べ物をひたすら咀嚼している時は無心だし、自分の中にあるからっぽの部分が埋まるような感覚がある。(吐き出す癖に。)

 

過食嘔吐には当然厳しい意見がある。食品がもったいないし、作ってくれた人だって何も吐いて捨てるために作ったんじゃない。飢餓で死んでいく人も世界にいるのに一体どういうつもりなんだ。

 

分かっている。厳しい意見というか真っ当な意見だ。私自身もそう思っている。こんなことを繰り返している自分が情けないし、恥ずかしいし、最低だっていう事は理解している(つもり)なんです。それでも口に物を入れてしまえば、自制がきかなくてお腹が爆発しそうになるまで食べ続けてしまう。

 

根性論を推すわけではない。しかし断薬は苦しみながらでも止めることが出来た。過食だって「適切な量で止める」とか「吐くくらいなら水でも詰め込む」とか、代替方法があるように思う。

 

もう性的な暴行やDVが日常的に行われている訳ではない。少しずつかもしれないけれど人生の手綱を握れるようになっているはずだ。だからもう薬も必要ないし自分の意志で自分の行動を変えられると信じたい。自分の弱さ故の愚行なんて仕様も無さすぎる。

 

時間がどれほど残っているのだろうと考えればこそ、せめて理想像に近づけるように努力すべきではないのか。最期までカッコ悪いままの自分で、昔の出来事に足を引っ張られて文句を言いながら過ごす気なのか。

 

ぐるぐると考えてこそいるけれど「御高尚な事を考えちゃって。どうせ足掻いたってクズはクズのままだよ。最低な人間らしく好き勝手にしてぼろぼろになって死んじまえよ」なんて思ったりもする。

 

意識的ではないにせよ、過去の事を思い出すことで自分のよりどころというか、負のエネルギーを自分で生み出しては苦しんでいるのかもしれない。

6.決別

数年前に両親と決別した。
「探さないで下さい。さようなら」というありがちな置手紙をして家を出た。家を出るまでに、休みの日には旅行のふりをして遠く離れた場所へ行って転職活動をしたり、家を借りたりして3か月ほどかけて準備をしていた。

強引すぎるやり方だったと思う。本当はこんな方法は悪手でしかないと分かっていた。それでももうまともではいられなかった。

このあたりについて私は自分でも上手く書けない部分がある。罪悪感もいっぱいある。いつか書きたい。

そして一人暮らしが始まり、今に至っている。