影を殺せ!!

死ぬまで抜け出せない呪いもある

お母さんであり女であり

お母さんの事を想像するときってどんな姿なんだろう。

 

私にとってのお母さんは・・・とても複雑。でも一般的なイメージである「母親」とか「母性」とか「ママ」っていうよりは「女性」だ。

 

おしゃれな服を着て、髪を綺麗に整えて、お化粧をして。「貴女のママってすごい美人ね」という言葉は小さい頃からいっぱい受けて来た。ただその言葉は私にとっての自慢ではなくて「私は不細工なんだ」というマイナスの感情に繋がった。ああでもこれは同性の親だからこそなのかもしれない。大なり小なりどこの母娘でもそういうことはあるか、うん。

 

例えば私よりも間男を優先したこと、言う事を聞かないからと折檻したこと、そういう事を裏打ちするのが「お母さんは一人の女性」ということだ。

 

お母さんという最強の後ろ盾というよりは一番身近な女性という感覚。甘えられる存在というよりは、受け止めなくてはいけない存在。感情をあらわに出来る相手というよりは、同調し同情して理解を示さなくてはいけない相手。先人の知恵というよりは反面教師。言葉にするのは結構難しい。

 

私が母に甘えるといえば欲しいものを買ってもらうときくらいだったらしい。「貴女は欲しいものがあるときに調子が良くなるだけ!」ってよく怒られていたなあ。うーん、普通の母子関係だとどういう時に甘えるのかな。

 

学校で嫌な事があったときに話を聞いて貰うとか?

人生の岐路に立った時にアドバイスを貰うとか?

調子が悪い時に抱きしめて貰うとか?

 

あーあ。そういうの憧れる。学校や人間関係で私が困っていたとしても、それより家の中の方が厄災状態だったからそんな話をしたこともなかったし、例えば友達と喧嘩をしたという事が母の耳に入ったら、私の言い分を聞くこともなく怒られていた。

 

父への愛情と憎悪は私の想い通りに動いてくれなかった、約束を守ってくれなかったことに対するところに起因しているから割合単純なのだけれど、母とのことはもっとドロッとしていて複雑だ。

 

母は私の為という言葉を使っていろんなことを正当化してきた。

 

あなたが将来困らないように、歪んだ性格を矯正している

あなたにはヴァイオリン以外何もないのだから伸ばすしかない

あなたのためを思って〇〇してあげたのに!

 

それが私にとって有難迷惑だったり余計なお世話だったりしても、それは受け入れなくてはいけないものだった。随分ひどく怒られてきたし、心が引き裂けるような金切り声も怖くて仕方なかった。

 

外で見せる穏やかな笑顔の母、お稽古で関わるお母さんや生徒さんと関わっているときの優しい母と、家の中での鬼で悪魔の母は全く違った。怖い母は大嫌いだった。

 

それなのになんでだろうな。私が母の事を思い浮かべるときに真っ先に出てくるのは、体調を崩して寝込んでいる母だ。私をぶん殴り疲れて、(勝手にだけど)疲弊して泣いている母だ。

 

これはあれだね。DV夫婦でよく聞くことだけれど、相手の事を怖がっているし憎んでもいるのに、アタシじゃないと受け止められないのぉ・・とか言ってるケースそのもの。勘弁してくれよォ。

 

結構前に母と間男がいた時の話をした事があった。彼女はとても悔いていて、心から申し訳ないと何度も謝っていた。私は彼女の涙にとても弱い。そういう風にプログラミングされているのではないかと思う程に、戦意を喪失して何も言えなくなる。

 

間男のことなんかは母が大人として決めて、そのことで家族が巻き込まれたともいえる。(それまでの父のモラハラや私が扱いにくい子供だったことを端折ったから極論かな。)でも泣いて謝られると一気に母が被害者みたいだ。

 

「泣くなッ!」と声を荒げたくもなるのだけれど、経験則でそんなことは無駄だと知って居る。感情が高ぶると涙がどんどん出て来るそうで、態と泣いているわけではないらしいのだけれども、そういうところだよ、と思った。だから私は自分の感情をぶつけられない。悲しい事、怖かったこと、甘えたかったこと、俗にいう子供っぽい感情は抱いたところで無意味なんだ。

 

そういえば小学校の高学年の頃だったか、もののけ姫のモロに憧れていた。もとより動物が大好きだし、小さい頃から頭がファンタジーだったのかもしれないけれど、モロと子供たちが家族だったらいいのにな、なんて夢想していた。

 

家にある犬のぬいぐるみをモロに見立てて遊んでいたし、こっそりお母さんって呼んでいた。寝るときも一緒だったし、母に叱られて泣いている時にそばに居てくれるのはいつも犬のぬいぐるみだった。だから脳味噌がバグっちゃって、母を母と思わなくなったのだろうか。いやそこまで無茶苦茶ではないか。

 

母の事はなんだか書いていてとても疲れる。上手くまとまらない。心の余裕があるときにでも再度チャレンジしてみたい。