影を殺せ!!

死ぬまで抜け出せない呪いもある

5.死ぬ死ぬ詐欺

向精神薬に溺れた大学時代だったが、社会人になってもそれは変わらなかった。仕事が終わってから飲みに行き、お酒が抜けるかどうかギリギリの時間に睡眠薬を飲んで寝る、の繰り返しだった。

 

当然体の調子だって悪いに決まっている。健康な人だってこんな生活をしていたらどこかしら不調をきたす。よく肝臓がぶっ壊れなかったと思う。そしてたちが悪い事に、金曜日の夜にOD(オーバードーズ:薬を規定量以上に飲むこと。多くの場合自殺未遂のときに起こる)をして病院に搬送され、日曜または月曜に退院したということが3~5回あった。もっと多かったかもしれない。

 

救急車をタクシー代わりにするとんでもない人がいると一時期ニュースになっていたけれど、私もそういった人の一部だったし社会にも迷惑をかけていた。

 

普段から薬を飲み過ぎて20歳から25歳くらいまでは記憶が怪しい部分が多い。あんな状態なら「この人、なんだか変」と思われていたに違いない。いまだからこそ当時の私を振り返って恥じ入るのだけれども、当時は自分がおかしいかどうかも分からなかった。

 

見てわかる事として、過去の写真に写った私の目や表情を見ると気味が悪い。どこを見ているのか分からないというか、目に光が入っていないというか、薬物中毒者の眼というのはああいうものなのかもしれない。そして表情が歪みまくっている。友達と写った写真を見てもぞっとする。

 

話が脱線したけれど、そんな状態を続けていたある時に、とうとうどうにも希死念慮が高まり切腹を試みた。それをきっかけに精神病院に2週間ほど入院した。

 

入院時にロールシャッハだの脳波だの箱庭づくりだのと検査はしたけれど、その後は作業をした記憶も無い。朝起きてテレビを見て本を読んでご飯を食べて、5日に一度、30分のカウンセリングを受けただけだったような気がする。

 

「解離性人格障害」という診断名だったのだが、いまだにこの診断名には疑問が残る。個人的にはボーダー(境界性人格障害)の要件に当て嵌っていた気もする。いや、それ以前に合法なお薬でラリっていただけなので、ただの薬中だっただけなのではないか、とも思っている。

 

その後は薬の管理が行われていたこともあり、むちゃくちゃな薬の飲み方をしなくなったものの、睡眠薬への依存からは抜け出せていなかった。薬への耐性がつきすぎてベゲタミンAを限界量まで飲んでも寝付けず、この頃の記憶の怪しさったらないのだけれど、麻酔薬に近いものを処方されていたようだ。(日記にそう書いているのだが、支離滅裂なので妄想が入っているのかも知れない)

 

このお薬との蜜月関係は、恥ずかしい事に1年前まで続いていた。向精神薬を急に使用中止すると宜しくないと医師に言われている事を理由に止めようとしてこなかった。けれども服用量を減らすと、とたんに不安になってお酒に逃げたりしていた。

 

お酒と薬の相性の悪さったらない。絶対に一緒に飲んではいけないというのに、ブースターか何かのつもりで煽っていたし、そんなことをしたら一瞬で記憶が飛ぶので、朝起きて擦り傷切り傷の怪我もしていた。

 

しかし1年前の私がそれまでの私と違ったのは、両親との関係を断っていたことであった。これまでズルズルだった私だけれど、燃えカスになった良心に「このままでいいの?一生こんなことを続けるの?」と問いかけられた気がした。

 

どこかで薬はもうやめたかった。メンタルではなく体が薬に対して悲鳴を上げていた。

 

薬を飲めば心は楽だった。つまらないことも楽しく感じたし、普段の自分なら無理をしなくてはいけないことも楽にこなせた。でも常に薬の作用・副作用が起きていて、体のしんどさや体のかゆみや、むずむずするような感覚から逃げたかった覚醒しきっていない状態で仕事をするのももう限界だった。

 

これまで14年間薬に助けられてきた。その時々によってはわたしが生きるために必要なものだったとも思う。けれども両親と縁を切ったのは、単に近くにいたら辛いとかしんどいというだけではなくて、自分を取り戻すことや、過去や両親に囚われない生き方をしたいがためだった。

 

だからまずは影響を強く受けていて、支配されているとも言える向精神薬をきっぱり絶ちたくて休職をした。薬が無ければまともに(既にまともではないけれど)仕事をする自身も無かったし、コントロールする自身も無かったから両立して駄目になるくらいなら片方を休もうと決めた。

 

結果的に最初の1か月は毎日朝なのか夜なのか、起きているのか気がおかしくなっているのか、怒っているのか泣いているのか、もうめちゃくちゃだった。大声を出したり口汚くののしったり、かといえばハイになって踊ったりした。

 

10分ごとに変わる気分に滅入りながらも、「引き篭もっているのだからいつ寝ても良い。むしろ寝られないところで明日を気にする必要もない」「今まで出来なかった事をする良い機会だ」と言い聞かせて、ただ薬を飲まないという事以外は好き放題にしていた。といってもドカ食いをして吐くくらいの事だけれど。

 

そうこうしていると、最初は3日眠れない→5時間くらい寝る→眠れないの繰り返しで、外に出るくらいなら死ぬという位何もかもが怖かったが、断薬から3か月目には外に出られるようにもなったし、1日に2時間くらいの睡眠を取れるようになった。

 

1日に8時間ほど眠れた時は不思議な多幸感があり、なんだか収まるべき所にものごとが収まったような 気もした。

 

いまだに睡眠はへたくそだけれども、睡眠薬が必要だと思うこともない。睡眠時間が短かったとしてもそのぶん翌日の夜は早く眠れることが経験として身についたことによって、あまり動揺しなくもなった。

 

デパスマイスリーあたりは内科でも簡単に処方される薬だと思う。麻薬のうち大麻のことをゲートドラッグと呼ぶらしいが、デパスマイスリー薬事法の中で医療機関が出しているという冠があるだけのゲートドラッグだと思う。

 

私の人生は反面教師になることばかりだけれども、もし他の人に何かを伝えられるなら、精神薬は未来の前借りになることが多いので、可能な限り使わないようにして欲しい。と声を大にして言いたい。

 

随分長くなってしまった。清算作業はあと2記事くらいの予定だ。

父親、おとうさん、パパ

コロナウイルスの蔓延で、日に日に実体経済の弱体化や混乱を実感している。また有名人の感染も報道されたり、コロナウイルスに感染し発症してから驚くほどのスピードで亡くなっている方も決して少なくはない。

 

普通にお昼が来て夜が来て明日が来てなんて思ってしまっているけれども、そんなことは何も当たり前じゃないんだなと思う。だからと言って大きく気持ちが変わる事がないという残念さ。ただ人に迷惑を掛けないように家で過ごしている。

 

 

私は父親と縁を切って、というか一方的に決別してもう数年になる。両親が離婚して、私の親権は父親が持った。何故かというと扶養控除のためだ。ちなみに母が有責なのだが調停もなく手続きを終えたらしい。私は母と一緒に住んで居たので実態と手続き上は異なっていた。

 

「あなたのお父さんは決して扶養控除のために、親権を取ったわけじゃないのよ」なんて思う方もいるかもしれないが、もしそうだとしたら

 

・なぜ私がSAやDVを受けている事を知っていながら、社会的なことを優先して表ざたにしないように言われたのか

・いつか変態教師に責任を取らせると言って希望を与えておいて、十何年そのことをすっかり忘れているのか

・離婚後の父母の住まいは徒歩15分程度と近かったので、距離や引っ越しの問題ではなかった

・離婚後すぐに彼女を作った上にキラキラ報告をしたのはなぜか

・私の知らないところで勝手に結婚していたのはなぜか

 (しかも結婚相手には連れ子が居たので、戸籍上の兄弟姉妹ができた。会った事もないのに) 

と反論にキリがない。

 

と怒りのぶちまけをしているのだが、私は母が大好きだったのと同じくらい父の事も大好きだった。父は働き者で、私が起きるよりも早く職場へ向かい、私が寝る頃になって帰宅するくらい多忙だった。一緒に遊んだ思い出は少ないけれども、小さい頃には一緒に絵を描いたこともあった。理屈っぽくて自分勝手で気分屋でちょっと面倒くさい父親だなあと思いつつも、それはそれとして私にとっては名実ともに唯一無二の父だった。

 

かっこいいお父さんって父親参観ですごく人気だった気がする。運動会で親子参加の競技で活躍するスポーツマンタイプのお父さんとか。私の父は決してそういうタイプではなかったけれども、仕事ができて頭が良い自慢の父親だった。

 

母が恋に溺れたときに、父も見たくなかったんだと思う。家に帰らなくなったこともあったし、別の場所に家を借りて一時的な別居をしていたこともあった。気持ちは解る。自分が同じ立場ならきっとすごくつらい。今だからその気持ちを想像することは出来るけれども、それと幼い頃・未熟な頃の私が深く傷ついたことを赦す…というか、「しょうがないネ★」と流すことは別の事なんだ。

 

父の気持ちに理解を示すことは出来るけれど、私が親なら子供の事を一番に考える。それは今の私だから言えるのかも知れないんだけれども。

 

でもね。自分が辛いから家に帰らない、見たくないから別の場所に家を借りちゃう、転がり込んできた間男に実子がぶん殴られたり性行為をされていても知らんぷりできる、というのはどうしてもおかしい。

 

父の事が大好きだった。できるならすべての期待に応えたかった。ヴァイオリンの習い事について父は興味も関心も無かったけれども結果を残したし、学校の成績も悪い方ではなかった。読書感想文コンクールでも絵のコンクールでも習字でも症状を貰っていたし、学級委員や役員会もしていて恥じる程の娘ではなかった・・・はず。多分。

 

でもお父さんは私を認めてくれることは無かったと思う。私の被害者意識でそう見えているだけかもしれないけれど、私の感覚ではそう思っている。親子間には無償の愛というものがあると聞くけれど、私と父には無償の愛なんてキレイなものは無かったのかもしれない。

 

自分に落ち度があると思えないまま(気付けなかったまま)父は新しい恋人を作って結婚をして、相手の連れ子と旅行へ行ったりしていた。私とは行かないのに。置いてけぼりにされたと思ったし、自分が何よりの頼みの綱や希望にしていた「いつかお父さんが無念を晴らす」なんて言葉も忘れられた。

 

それらはとてつもない憎悪になってしまった。大好きだったから自分を曲げてでも従った、その結果がこれかよ。そんな気持ちがどうしても消えないし、父に対する思いは未だに自分でも扱いきれていない。二度と会わないつもりの父を恋しく思う日もあれば、苦しみぬいて早く死んでくれと腸が煮えくり返る日もある。

 

そういえば両親の離婚後、まだ学生だった頃に月に1度父に会う日があった。しかし父に会うとその後は体調をよく崩していた。甘えたい、優しくされたいという気持ちと憎しみの気持ちでめちゃくちゃになっていたんだと思う。

 

私は父からも母からも離れて、その後は何とか向精神薬を絶つことができた。まだ摂食障害を克服できてはいないのだけれど(このあたりはまた別の機会に書かせて欲しい)関わっていると、どうしても父に期待をして、叶わない現実に激怒していた。それが減ったというだけでも今は安定している。

 

心から大好きで、だからこそ憎い。対極にある感情のように思えるかもしれないけれどこれは表裏一体だ。

 

いつか和解するのか、したいと思っているのかというと、かなり不透明ではあるのだけれども、二度と会うことは無いと思う。私が父のもとを去った時にそういう覚悟だったという事もあるし、関わるという事は相手に期待があるからだ。

 

例えば目の前に獰猛ないきものが居たとして、普通は近づかない。だって殺されるかもしれないから。それでも近づくとしたら、鎖でガチガチに縛られているとか、絶対に自分に被害が出ないような環境や状況が整っているという前提が必要だ。

 

けれど父親の”感情”や”行動”は鎖で縛りつけられるものでもないし、動きを封じればどうにかなるケモノとは違って、言葉や仕草だけでも私にとっては凶器となり得るからだ。

 

悲しいけれども近づくだけで不幸になる相手は存在する。

してみたいことはひとつ

以前にも書いたのだけれども、変換機能がバカすぎてPCを触るのが不快で仕方ない。「~している」を「~して居る」、「できない」は「出来無い」、「~がある」を「~が在る」に変える。何度も変換ボタンを押してひらがなを選択しているのに、毎回一度目の変換では漢字になるの。

 

何なら「~よね」まで「~米」にするんだけど、ウイルスでも入っているのかな。何なのよ。新品で買っているし、そういう文章を書いたこともないんだけれど。漢字まみれで読みにくいでしょうが。怒り。

 

 

例えばあと5年ほどで寿命が来るとしたら、と考えて、したかったことは結婚式かな。あとは特に何もない。

 

エジプトでピラミッドを見てみたいとか、南極に行ってみたいとか、人生のto doリストにはいろいろ書いたんだけれど、そんなに切望するほどのものでもない。行けたらいいな、くらい。

 

突き詰めて考えてみると、大好きな人をみつけて「自分の過去なんて考える価値も意味もないわ」って笑いたかったな。

 

これって他力本願なのだろうか。

 

両親を見てきたこともあって、私は結婚しないって思っていたし、誰も信じられないというか、信じて痛い目を見るのも嫌だった。それと絶対に「私は可哀想だから仕方ないの」みたいな人間にはなりたくなくて、社会的にきちんとしておきたかったから仕事やお金が一番大事だった。

 

だから結婚は「しない」ものだった。でも今は「できない」という方が正しい。治療費ばっかり掛かって、一緒に楽しむ体力・時間的な余裕のない私と一緒に未来を作って行きましょうなんて思ってくれる人はいないんじゃないかな。

 

「しない」と「できない」は全然違う。しないという事は自分の気持ちや環境の変化によって、するという選択に変えられる。けれど不可能を可能にするのはもっと難しい事。それに結婚なんて一人でできる物でもないし。

 

自分で自分の過去は清算するべきもので、誰かに寄り添って貰う事で解消するものではないのかな。結局は自分しかないのかな。でも私はクソみたいな人間だから、誰も信用できないって思って居るし人間なんて嫌いだよって思っている反面、心を預けられる人や存在を渇望していたりするんだよね。

 

デモ・デモ・ダッテで申し訳ないんだけれど、こんな私を好きになってくれる人は居ない。だって汚いし自己管理ですら難しいし私は私が一番嫌いだから、どんなに好きだと言われても信じられなくて、あなたは調子の良い事を言って都合よく利用するつもりなんでしょう、と腹が立つ。

 

同じくらいの容姿、職業、学歴、持ち物、なんて腐るほどいる。そんな中で私をピンポイントで選ぶなんて、ツボでも買わせる気なのか、連帯保証人にして人生を潰すのか、薬漬けにして海外に売りつける気なんじゃないかって疑う。

 

その原因は自分が生きて行くにあたって自分を偽り続けているからだろう。理想の私みたいなものは、誰にでも優しくていつも笑っていて、少し抜けているところもあって、心の綺麗な人。だから社会の歯車のひとつとして生きて行くにあたって、そういう行動を取っている。

 

けれど本当の私ってそういう存在からは大きくかけ離れていて、人付き合いも面倒だし誰とも話したくもないし、そもそも人がどうなろうが知ったこっちゃない。

 

なのに何となくだけれども相手が何を求めているかが分かると、自分がどうしたいかではなくて突発的にそれに従った行動を取ってしまう。嫌われたくないのかも知れない。結局自分可愛さなのかもしれない。自分が本当はどうしたいかではなくて、その場を取り繕って生きてきたのが今だ。

 

嘘でも偽りでも自分が積み重ねてきたものを突き崩すのは非常に難しい。相手のアクションを受けて、まず自分がどうするべきなのか、どうしたいのかを考えていたらスピードについていけない。だからといって脊髄反射にまかせていると、驚くほど疲弊していくし、半日ないし一週間くらいして落ち着いて考えた時に嫌になる。あの時こうしていればよかった、面倒くさいな、っていう自分反省会が追い付かない。

 

思うがままに書いたけれど、このあたりは改めて考えたい。 

 

記録に残す理由・がん

本来ならば隠すべきところである自分や身内の恥を、こんな風に書き連ねているのかというと、切っ掛けはがんだと診断されたからことにある。

 

これまでは少しだけ希望を持っていた。明るく前向きに未来を思って生きていれば、いつか報われるのではないか。誰かを信じたり優しくして居れば、昔に起きた事を乗り越えて「いろいろあったけれども幸せになれた」とか「苦しい事があったから私は立派になれた」なんて言えるのではないかと思っていた。

 

でも現実は違う。毎日死神に取り憑かれていたわけじゃなくて、楽しい事や笑えることもあったけれども、こうやって自分の命と向き合う事になった場合に、だましだまし来ていたことを「夢」とか「希望」なんて耳障りのいい言葉で信じようとしていたんだなという馬鹿さ加減に笑いが出た。

 

まだ親族には誰にも言えていない。自分勝手かも知れないけれど、この気持ちは私にしかわからないからだ。これまでも、私の人生や気持ちに寄り添おうとしてくれたことがあったけれども、なんていうのかな、それって結局私という存在を通して、自分をより美しく優しい人間だと認識するための手段にされている気がするから、言うのが恐ろしい。

 

これまで「死にたい」と言った時に、「本当に苦しかったり、死を目前にした時には死にたいなんて言えない。生きたいと泣き喚くはずだ」なんて言われたけれど、少しだけ「死」というものを意識した際に思った事がある。

 

「やっと楽になれるかも知れない」ということだ。できるだけ普通に、目立たないように、社会の一員としてなじめるようにと取り繕って生きる事に苦しさがあった。けれど自分の過去を話すことで、腫物に障る様な対応をされるのも嫌だと思っていた。

 

だから積極的に「死にたい」という訳ではなくても、積極的に「生きたい」と思えるほどの理由も無かった。生きる事に対して前向きにしてきたけれど、30年という時間ではそこになにも見いだせなかった。だから押してダメなら引いてみろで、死ぬことに対して希望を持っても良いのかも知れないと感じた。

 

一方で「死ぬ」ということを意識して行動や感情が変わる事によって、これまでとは違った生き方ができて、生きる事に希望が見いだせるかもしれないとも思っている。治療の計画もまだ決めていない。切除するのか放射線なのか。けれど実はもう何もせず、放っておいて欲しいとも思っている。何もしたくない。

 

もっと頑張れ、生きろ、治せ。それで治ったら治ったで、治療中のことは社会的なスコアにおいてマイナスにしかならないのに、生きろ、再発の検査をせよ、金を稼げ、生きろ、この連続。もう、頑張るのは無理だよ。頑張れない、頑張りたくない。

 

担当医が「頑張りましょうね」というのを、希望を与える自分に酔っているように見える。人の人生を左右する能力を持った神様ぶっているんじゃないかと苛立ってくる。きっとこれは穿った見方というか、人の優しさとか温かさに対して懐疑的になり過ぎて居るんだろうけれど。

 

診断を受けて10日ほどになるけれど、今日やっと泣いた。朝、目が覚めて急に苦しくなった。家中を滅茶苦茶にして、窓ガラスを割ってしまいたかった。生きたいという慟哭なのかもしれない。けれどこれからもっと面倒くさい事が起こると思うと、もう早く殺してくれと思った。

 

一人の人間を殺して臓器移植を行い、結果的に五人が生存するのなら一つの命の価値とはナンデショネ。みたいな命題があったと思う。汚染されている私の臓器は使えないだろうが、それが可能なら差し出したい。なんていうのはそれこそ思い上がりなのか。

 

それでも夢があったり子供が居たり、わたしよりも生きるに値する人は沢山いる筈なのだ。

 

 

4.チンパン家族とのご対面

変態教師の事をチンパンと多用しているが、チンパンジーとは関係ございません。(テレビ局並の保身)

 

チンパンがどこかの女性を襲おうとしたことにより、またもや私の周りがざわつくことになった。長く内縁の妻的なポジションだった母に対して、チンパンFam.がコンタクトを取って来た。今後の事を話し合いたいというので、私も母に同席してチンパン弟と対面した。輪郭こそ違えども顔の造りがよく似ていた。

 

不快感が強く、大声で怒鳴ってしまいたかった。あなたたちがアイツを縛ってでも換金してでも、なんならぶち殺してでもつないでおかなかったせいで、私も、私の家族もめちゃくちゃにされたのに、何が今後の事だよ、と。

 

私はあらかじめまとめていたことを伝えるので精いっぱいだった。

 

情状酌量のために証人になる気はない。母も今のところはそう言っている。しかしもし執行猶予つきでシャバに出てきたり、刑期を終えた後に二度と私達に関わらないことや、報復をしない保証はどこにあるのか。これまで私の家族はあなたの兄のせいでめちゃくちゃになった。わたしは何なら公訴時効を迎えていない自分への暴行、強姦についても被害届を出すか迷っています。どないしますの」

 

それに対して彼は「兄があなたに接触しないよう、僕が全力でお守りします」と至極まじめな顔をして答えた。もう腹が立つとか悲しいとかではなくて、体の力が一気に抜けて何もかもがバカらしくなった。

 

24時間365日の警護が出来る訳でも無い。そもそも似た顔、同じ血の流れている人に近くにいられたら不快でしかない。何を以て「オマモリ・シマス」なのか。チンパンがその気になれば何でもできる。

 

チンパンに会わないために一生引き篭もれるのか。お金はどうする。学校はどうする。普通に生きて行くために自衛として出来るのは、会いそうな場所へ行かないことや催涙スプレーを持つことくらいじゃないか。

 

結局話し合いはする意味があったのか疑問に思うくらい平行線をたどった。のちの話になるが母はチンパン家族からかなりの額の示談?口止め?慰謝料?を受け取っていた。

 

確かに母もチンパンに殴られたり歯を折られたりしていた。きっとチンパンの起こしたことで傷ついただろう。しかし彼女の場合自分が選んだことじゃあないか。DVを受けても娘が頼んでも、なんなら警察が来た時でさえチンパンをかばったのに慰謝料って何だろう。それも私への被害を出汁にして。

 

「娘はチンパンのせいで精神科に掛かるようになったし、それに対して一番痛みを感じさせる手段はお金しかなかった」みたいなことを電話で話しているのを聞いてしまったのだけれども、いや、それならその数百万だかを私にオクレ・・・と思ったのは我儘でしょうか。ドウデショウ。

 

私は当時大学生である。よく小説である「ラムネの様に薬を飲んでいた」というのは身につまされる表現で、四六時中ラリパッパだった私ではあるが、何とか地元の国立大学に受かっていた。問題文も覚えていないし、小論文も何を書いたのかも覚えていないけれど、奇跡的に受かったというか幸運を使い果たした。

 

家はぐちゃぐちゃだったけれども、だからこそ普通を取り繕うようにしていた。していることがちぐはぐなんだけれど、「これよりも堕ちちゃいけない」っていう気持ちが強かった。生来の見栄っ張りなんだ、きっと。可哀想って言われるのもしゃくだし(同情するなら金をくれ精神)内弁慶だし、特に若い頃は他人の評価に依存していた。

 

しかし私の大学生活の実態は泥だった。何度もODをして病院のお世話にもなったし、切腹をしたこともあった。その感情を上手く表すことができないのだが、自分がもうどうしようもない存在で、自分で自分を救うことも出来なければ夢も希望もなにもなかった。

 

薬を沢山飲んで暴れては母に暴言を浴びせる。壁にハンマーで穴をあけた事もあった。まるで私はチンパンそっくりだった。そんな自分がまた憎くて薬に逃げた。そのくせ腹が立って口惜しくて仕方なかった。

 

20歳を超えてお酒を知ってからは、もっともっとひどくなった。薬に加えてアルコールが入り、朝方に眠っては夕方に起き。生活はぐちゃぐちゃ。

 

3.血と骨みたいね

今日は穏やかな風が吹いている。

 

こんなことを書くのは大雨雷雨暴風雨の中、メガネにPCの画面を映しながら、取り憑かれたような表情をするに限るのだろうけれど、今日のお天気はなんだか荒んだ気持ちを中和してくれる気がする。

 

それはそれとして、このパソコンはもう三年以上使っているというのに、本当に学習能力0で参ってしまう。「取り憑かれる」も「鶏疲れる」と変換するし、そのくせ「~している」は「~して居る」と妙に時代を感じる漢字遣いにしてくれる。

 

わたしを文豪にでもしてくれるのか。金を生む鶏になってくれるのか。期待だけが膨らむ。

 

三回目だが、私の青春は北野武監督作品みたいな日々であった。箇条書きでまとめておこうと思う。

 

◎私、高校進学

・父、家を出る

・変態教師、我が家に入り浸る(生活の拠点が我が家になる)

チンパンがDVを始める

・母、ぶん殴られて前歯が吹っ飛ぶ

・実は両親が離婚していたと聞かされる

・父、彼女を作る

・私、隠れて精神科に通い、向精神薬に溺れるようになる

・強い睡眠薬で寝る私を、変態教師が日常的に襲うように(性的な意味でも)

毎日DVのお祭りが始まる

◎私、高校3年生

・DV祭りに耐えきれず警察に通報するも無能警察は誤報として処理

 →しかしチキン変態教師はビビって家を出て行く(高校3年の10月)

 

という感じ。

 

父とは定期的に会っていたが、家を出て行ってすぐのころは「私は子供である君のためにこれから生きて行く。」と熱っぽく語っていた。しかし稀代のウッカリ☆モラハラ君ゆえに、そんな約束などものの三か月くらいで破られることになる。「付き合っている人がいるんだ」じゃねえよ。うっとりしちゃってさ。

 

何度か父に「家に転がり込んできたゴミ教師が暴れて困っている。体を触られたり、ぼこぼこにされる」という事を伝えた。性的な事について全ては言えなかった。一応まだ恥じらいみたいなものがあったし。

 

その時の父の反応は「今は社会的な立場があり、自分がアクションを起こすことで取引先や社員に迷惑を掛ける。引退したら必ず敵を討ちに行くから今は我慢してくれ」と苦しそうに言った。これがまた10年以上経っても守られることはなかった。黙り損。

 

そうは言っても家にお金の供給が絶たれたことはなかった。両親の離婚についても、どう考えても母が有責だというのに、父は慰謝料も取らず養育費や生活費もかなりの額を送ってくれていた。良い人なのか悪い人なのか、やはり判断が付き兼ねる。

 

変態教師は真夜中に部屋へ夜這いするようになり、私は初めてを失う。一度だけ抵抗したことがあったのだが、ぶん殴られながらベランダへ引きずられて「抵抗するならここから落とす。精神薬を飲んでいるから警察だって自殺だと思うだけだ。今後抵抗したら殺す。」と恐ろしい事を言われ、戦意を喪失したわたしは更に睡眠薬を飲んで、何もかもから逃げ出すようになった。

 

怒りで興奮したチンパン教師が顔を紫にして、肩で息をしている情景は強く焼き付いている。煙草を吸っていて少し浅黒い肌が赤くなるから、まるで青タンの様な紫色になる。その顔を見ながら何度も殺されると思った。何度も包丁で刺し殺そうと思ったけれど、そのたびに自分が殺人を犯すことも出来ない小心者だと思い知った。

 

いつか父が変態教師に復讐をして、苦しみぬいて世界中から嘲笑われながら自殺をするまで追い込んでくれることを夢見るのが精いっぱいだった。

 

のちにナイスな機転を利かせた私が警察に通報した。私の部屋で大暴れをして、部屋の中に台風かハリケーンでも来たんですか?というほど荒らされた。私も母もボコボコにされていよいよ命の危険を感じたからだ。

 

しかし警察に対して母が「この娘は精神薄弱で薬を飲んでいるんです。喧嘩はしたんですがね。大袈裟なんですよ。すんまそ」と誤報扱いにするよう要請し、ばか警察はあざだらけの私を見のがし三振。「大丈夫そうだね」と言い残した。これが大丈夫に見えるなら目玉はどこについてるんだよ。ハリケーン・リタ級の大災害が18歳のJKの部屋にピンポイントでやって来るなんてマトモじゃないでしょうよ!税金返せ!

 

鼬の最後っ屁で、警察官に向かって変態教師の名前を連呼したことがきっかけになったのか、大学のセンター試験まで1か月を切った頃に変態教師は家を出てていったが、しかし過ぎた時間は何も戻らない。

 

私は16歳の頃に心療内科に掛かって、初めはデパスあたりを処方されていたのだけれども、次第に強い薬に依存するようになり、今から10年前の事だけれども、心療内科とか精神科を標榜する病院を複数回っては、沢山の薬を手に入れるようになっていた。

 

たかだか小さな錠剤だ。こんなものに何が出来るというくらいの小ささ。けれどそいつをシートからばきばき取り出して大量のポカリスエットで飲み下せば、20分後には何にも怖いものがなくなる。

 

親和性の高い薬を飲めば、落ち着くというラインを通り越して世界中に愛をばらまきたいくらいの気持ちになった。どちらかと言えば冷めていて可愛げのない学生だったが、とたんに饒舌になって人なつこいキャラクターにも変身できた。

 

言い訳をすれば毎日が辛かった。身内の恥を言えなかった。助けを求める先も無くて、ふわふわしていないと死にたくてたまらなかった。でも合法とは言え向精神薬を乱用したのは事実だし、最も後悔している事の一つでもある。

 

大学への進学先を決めるときに、私は地元・実家に残る事を決めていた。というのも首が折れたんじゃないかというほど強く張り手をくらったり、前歯を折られたり、顔に青あざをつくった母を見ていたから、自分がいなくなったら母が死ぬんじゃないかと真面目に思っていた。

 

随分甘ったれた考えだったし、自分だって夜中に部屋に入られて体を好き勝手にされていたけれど、それでもなんだか母を見捨てる気持ちになれなかった。きっと、最後の私の良心が燃えていたんだと思う。どんなにお馬鹿でも、考えが至らない恋愛体質女でも、母が大好きだったから。

 

変態教師が出て行ってしばらくして母からは別れたと聞いたが、私が帰宅すると彼のものがあったりしたので、すぐに完全には手が切れていなかった様子。しかし私が大学一年生の時に変態教師が婦女暴行事件を起こしたことで状況は一変。流石に手が切れた。

 

 どう書いていいか分からなくてお遊びな書き方をしたけれども、とても苦しかった。どこかで自分はここに居ないと思ったりして、やり過ごしたこともあったけれども、体は痛いしむちゃくちゃな気分だった。何より誰にも助けてはもらえない、だれもこの状況を変えられない、だったら薬でも飲んでやり過ごすしかない。

 

自分の意志で何かが変えられたのか。きっと児童相談所や高校の先生にでもぶちまけていれば、私の身は助かったのかも知れない。ただ当時まだ虐待だとか家庭内の問題ってそこまで取りざたされることもなくて、さらに警察ですら民事不介入でDVを積極的に摘発するような時代でも無かったからそれすら不確かだ。

 

それに私一人の身が助かったとしても、当時私の祖父母や親せきの家にまで出入りしていた変態教師が私のアクションひとつに激高して、それこそもっと大きな被害を出していたかもしれない。私の当時の懸念材料の一つだった。

 

それから私が性的な被害を受けている事が世間に知られたら、一体どんな目に遭うんだろうというのが一番大きな問題だった。悪性腫瘍があるという診断がなければ隠して生き続けていたし、やっとこうやって書けたと言っても匿名でこそこそと書いているに過ぎない。

 

本当に、一体どうしていれば今の私が「普通の幸せ」を手に入れられたのか分からない。

 

過去の事も含めて人を愛することが理想だとしても、大好きな人に自分の過去を知られて嫌われるのが怖い。言えないけれど、そういう経験が自分を作って来たのは事実。自分でさえ、こんなに時間が経っても持て余しているものを人に持ってもらうなんて図々しい事は頼めない。大好きな人ならなおさら。

 

 

2.ダブル・クソジジイ

本当にまずいという時に、人間って泣いたり怒ったりしない。考える余裕もないから。

 

よく作品では「ギャー!」「やめて!」なんて金切り声を上げたり、目がナイアガラの滝みたいに涙を放水する場面があるけれど、私の場合は息をするだけで精いっぱいだった。

 

美談の様に「子供はお空から親を選んで生まれてくるんだヨ♡LOVE&PEACE」みたいな文言を目にすることがあるけれど、もしもね、そんなことがあるのならば私はとんでもない馬鹿をやらかした。

 

子供の出生はとんでもない確率で起きる事だけれど、その明暗を分ける強大な力を持って居るのは親たちだ。私が生んでくれと頼んだわけでもなくて、それなりの手順を踏んで受胎しているのだから、「私を選んでくれたのね♡可愛いMy baby...」みたいな気持ちの悪い事を言わなくても良いと思うんだよね。

 

脱線は此処まで。

 

母の不倫に気付いたのは小学校5年生、もしくは6年生だったと記憶している。相手は当時私が師事していたヴァイオリンの教師だった。

 

教師が大してかかわった事のない私の父のことを、「いくじなし」だとか「金を稼ぐ以外に能のない男」なんてやたらと悪く言うようになった。初めは「え?」という感じだったのだが、例えば「コンクールの時に来もしない」「優勝しても祝いもしない」なんて現実に即したdisになると、私自身もどんどん疑心暗鬼になってくる。

 

お父さんは私に興味がないから来てくれないんだ。毎日ぶっ叩かれたり、練習しないからって友達と交換したシール帳やプロフィール帳を引き裂かれたりしたんだけどな。何のために私は楽しくもないヴァイオリンを弾いてるんだろうねェ。なんて憂鬱にもなっていった。

 

そして母と教師と私の3人でしょっちゅう食事にいくようになったことも不信感に拍車をかけた。小さい店舗で「お父さんとお母さんの仲が良くていいね」なんて大将に言われたこともあって、その時に母も教師も否定しなかったことも何だか変だった。

 

極めつけは母が夜に出かけていくようになったことで、鈍感な子供の私にも違和感を裏付けるに十分だった。

 

沢山の変化が訪れた。その変化は次第に父にも伝わり、母が行方不明になった夜は、母を探しに行くと息巻いた父に車で連れまわされた。思い当たる場所はあったのだけれども、ついぞその場所を教えることは無かった。きっと母は教師と一緒に居るだろうから、とんでもない修羅場になるだろうという予測の下に。

 

父には同情したけれど、彼だけの肩を持つ正義マンにはなれなかったのである。

 

決して父は悪い人間ではないと思う。血がつながっているという色目を抜きにしても。だた人の気持ちをナチュラルに無視して無下にする天才…生きる天災であることは間違いが無くて、そのことで仕事に於いても軋轢を生んできたという事は事実としてある。

 

簡単に言うと自分以外の人に対して、気持ちに寄り添ったり思いやりを持てないタイプだ。悪意なく自分の考えを他者に押し付け、良かれと思って居るだけに、その反応が気に入らなければ攻撃してしまう。

 

映画の「葛城事件」という作品を見た時に、父親役が私の父そっくりで驚いたので、伝わりにくかった方は見て欲しい。

 

両親のキャラクターについてはまた改めて書きたいのだけれど、そんなこんなで私は母の肩も父の肩も持つに至らなかった、が、どちらにも良い顔を使い分けるようになった。父には母を心配する私を、母には父に対して迷惑をしている私を演じることで、二人から優しい言葉を掛けて貰えるようになった。とても気持ちが良かった。

 

顔を合わせたくない両親から伝書鳩として使われるようになって、面倒だなという気持ちが無かったわけではないのだけれど、それよりも父からも母からも必要とされている事に安堵した。二人ともが私を自分の陣営に引き込もうと、おべっかを使ったり気を引こうとしてくるのがとてつもなく嬉しかった。

 

だから嘘も結構吐いていた。伝書鳩になったときに言葉のニュアンスを少し歪曲したり、あとは自分が悪くて怒られたことについても被害者ぶってみたりして、片方に怒られれば片方に慰めてもらって、いつだって私は被害者ヅラできていた。

 

そしてそんなクソにもならない生活は、中学2年生の夏に悪い意味で更に変わっていく。

 

ヴァイオリン教師が、コンペティション前だったということもあり我が家に来ていた。というより、彼はこの頃すでに父の居ない時には我が家によく入り浸っていた。

 

レッスンの休憩時間に練習室でゴロ寝していた私は、奇妙な感じがして目を覚ました。お尻で何かがこすれている。それがどうやら性行為まがいだということは直ぐに理解した。

 

混乱して泣いてしまうという事はなくて、逆に頭がすっきりした。明確に声を出してはいけない、寝たふりを続けなくてはいけないと思った。ただ鼻の奥がしびれた。ぎゅうっと目を瞑るとか震えるなんてことも無かった。ただ全く関係ないことを考えて、その場をやり過ごした。

 

そしてわたしの下着に液をぶちまけて、何事も無かったかのように部屋を去った教師は、その後のレッスンも滞りなく執り行った。軽口を飛ばしたり、笑いながら。とんでもない神経をした人間もいるものだ。

 

そして随分悩んだけれども、私はその下着を証拠として母にチクることにした。出来れば母と教師には別れて欲しかったし、流石に母も目を覚ましてくれると思ったのである。

 

しかし母の反応は私の思っていた物と違った。一通り傷ついた姿勢を見せたけれど、結局はその事をうやむやにしたばかりか、証拠品を廃棄し、変態教師に怒りをぶつけ、勝手に大喧嘩を繰りひろげ、勝手に仲直りし、変態教師からの電話を私に取り継いだ。

 

「俺とお前の母親が別れることになったら、お前の母親は自殺するけれどもそうしたいのか。死なせたくないよな。なら二度とこの話はするなよ。」

 

ほんとうはもっと過激な脅し言葉だったのだけれども、こういう感じ。電話を見守っていた母は懇願するような目をしていた。「ね、いい子だから。おとなしくして」という。だから私は口を噤んだ。

 

もう手元に証拠はない。これじゃあもう駄目だ。

 

自分が生まれてきたことがそもそもの選択ミスだとして、それは回避不可能なものだ。けれどもこの選択ミスは回避できた。初めから警察に駆け込めば…と書いたが大正義警察くんも全く頼りにならないことが後に判明する。