影を殺せ!!

死ぬまで抜け出せない呪いもある

記録に残す理由・がん

本来ならば隠すべきところである自分や身内の恥を、こんな風に書き連ねているのかというと、切っ掛けはがんだと診断されたからことにある。

 

これまでは少しだけ希望を持っていた。明るく前向きに未来を思って生きていれば、いつか報われるのではないか。誰かを信じたり優しくして居れば、昔に起きた事を乗り越えて「いろいろあったけれども幸せになれた」とか「苦しい事があったから私は立派になれた」なんて言えるのではないかと思っていた。

 

でも現実は違う。毎日死神に取り憑かれていたわけじゃなくて、楽しい事や笑えることもあったけれども、こうやって自分の命と向き合う事になった場合に、だましだまし来ていたことを「夢」とか「希望」なんて耳障りのいい言葉で信じようとしていたんだなという馬鹿さ加減に笑いが出た。

 

まだ親族には誰にも言えていない。自分勝手かも知れないけれど、この気持ちは私にしかわからないからだ。これまでも、私の人生や気持ちに寄り添おうとしてくれたことがあったけれども、なんていうのかな、それって結局私という存在を通して、自分をより美しく優しい人間だと認識するための手段にされている気がするから、言うのが恐ろしい。

 

これまで「死にたい」と言った時に、「本当に苦しかったり、死を目前にした時には死にたいなんて言えない。生きたいと泣き喚くはずだ」なんて言われたけれど、少しだけ「死」というものを意識した際に思った事がある。

 

「やっと楽になれるかも知れない」ということだ。できるだけ普通に、目立たないように、社会の一員としてなじめるようにと取り繕って生きる事に苦しさがあった。けれど自分の過去を話すことで、腫物に障る様な対応をされるのも嫌だと思っていた。

 

だから積極的に「死にたい」という訳ではなくても、積極的に「生きたい」と思えるほどの理由も無かった。生きる事に対して前向きにしてきたけれど、30年という時間ではそこになにも見いだせなかった。だから押してダメなら引いてみろで、死ぬことに対して希望を持っても良いのかも知れないと感じた。

 

一方で「死ぬ」ということを意識して行動や感情が変わる事によって、これまでとは違った生き方ができて、生きる事に希望が見いだせるかもしれないとも思っている。治療の計画もまだ決めていない。切除するのか放射線なのか。けれど実はもう何もせず、放っておいて欲しいとも思っている。何もしたくない。

 

もっと頑張れ、生きろ、治せ。それで治ったら治ったで、治療中のことは社会的なスコアにおいてマイナスにしかならないのに、生きろ、再発の検査をせよ、金を稼げ、生きろ、この連続。もう、頑張るのは無理だよ。頑張れない、頑張りたくない。

 

担当医が「頑張りましょうね」というのを、希望を与える自分に酔っているように見える。人の人生を左右する能力を持った神様ぶっているんじゃないかと苛立ってくる。きっとこれは穿った見方というか、人の優しさとか温かさに対して懐疑的になり過ぎて居るんだろうけれど。

 

診断を受けて10日ほどになるけれど、今日やっと泣いた。朝、目が覚めて急に苦しくなった。家中を滅茶苦茶にして、窓ガラスを割ってしまいたかった。生きたいという慟哭なのかもしれない。けれどこれからもっと面倒くさい事が起こると思うと、もう早く殺してくれと思った。

 

一人の人間を殺して臓器移植を行い、結果的に五人が生存するのなら一つの命の価値とはナンデショネ。みたいな命題があったと思う。汚染されている私の臓器は使えないだろうが、それが可能なら差し出したい。なんていうのはそれこそ思い上がりなのか。

 

それでも夢があったり子供が居たり、わたしよりも生きるに値する人は沢山いる筈なのだ。