影を殺せ!!

死ぬまで抜け出せない呪いもある

1.幼少期からの転落

どこから書いていくべきか悩んだけれど、やはり初めから書くのが一番なのだろうと思う。

 

私の視点で書いていく事と、昔の事ゆえに都合よく記憶がねじ曲がっている可能性にも言及しておく。また文体についてとても悩んだが、余りに感情的に書きすぎる読み手をただ不快にするだけになってしまう気がするので、少し茶化した表現につとめたい。

 

それでは私なりの反撃の狼煙を上げさせてください。

 

30年前、わたしは地方都市で生まれた。小さい頃から自我が強いタイプだったようだ。癇癪もちで思ったことは曲げなくて反抗的をすることも多かった。

 

お姫様も好きだったけれど、ウルトラマンも好きだった。どちらかと言えばウルトラマンの方が好きだったかな。

 

だから両親はわたしをガッチガチに厳しいお寺の幼稚園に入れるか、逆に自由度の高い私立の幼稚園に入れるかで悩んだようだが、押してダメなら引いてみるべしで私立の幼稚園に入園し、かなりのびのびとした生活を…と言いたいが、習い事ばかりであまり遊んだ記憶がない。

 

そして幼稚園を卒園する直前から引っ越しの話が持ち上がり、突然小学校のお受験のための塾へ行くことになった。アルプスの少女ハイジに出てくる家庭教師の先生そっくりな塾長に、よそ行きの笑顔を張り付けて頭を下げる母を覚えている。

 

塾長はおよそ20~30人程度いる生徒に対して問題を出し、1番に回答をした子にはメダルを与え、それが5枚貯まった子はご褒美としてお菓子をもらえるという仕組みだった。

 

私はこの懐柔作戦を見てとたんにやる気になるものの、週に1回、1ヵ月ほど通ったのみで、お菓子を貰えたかどうかはあまり覚えていない。ただメダル欲しさに正答を導けたかどうかはさておき、一生懸命手を上げた事は記憶にある。

 

そして肝心の部分だが、色々と至らず見事にお受験校と呼ばれる小学校に落ちる。

 

自分でも受かったという自信があったわけではなかった。のちに聞くと履いていた靴の紐がほどけていたらしく、そのあたりも原点対象になるそうだったから、両親は落ちただろうなと思っていたようだ。

 

当時の両親が何を考えていたのかは不明だが、私自身「落ちた」という事に対して恥ずかしさや情けなさがあった。合格者張り出しを見に行った時に、母が「ああ~」と残念そうな声を漏らし何とも言えない顔で私を慰めようとした。

 

期待に応えられなかった。残念な思いをさせてしまった。とてつもなく悲しかった。しかしこの件について私は両親の前で覚えていないフリをしてきた。きっと自尊心のために認めるよりも、無かったことにする方が楽だから。

 

そして引っ越しも終わり公立の小学校へ入った。3歳の頃からヴァイオリンを含め複数の習い事をしていたことや、夕方の時間はお稽古やレッスンに通っていたため、テレビを見るという習慣が無く、クラスメイトの話についていけずに少々苦労した。

 

そのうち「あの子はお金持ちだから」という一言で片づけられるようになり、お嬢と呼ばれるようになった。構成要素だけを見ればそうなのかもしれない。学校が終われば母が迎えに来てレッスンへ行くのだから、子供からすれば一緒に遊びもしない変な子だ。

 

お嬢様風に娘を育てたかった親の思惑通りだったと言えるが、お受験校に進学していたら、私の生活など当たり前どころかヒエラルキーの上位に食い込めていたかというと、そうでもなかった。

 

そもそも私の両親ともに子育てをする土壌がどうなっていたのかというと、ご尊父様におかれましては日本で最難関と呼ばれる大学に落ちたという経歴があった。

 

ご母堂様におかれましては美人だけが取り柄の夢見る夢子だったために、ちぐはぐな一家だったのだと、完全に爆死離散した今になって思う。

 

勉学については特別困るという事も無かったけれど、例えばテストで95点を取って来た事に対して「よく頑張ったね」という言葉は無く、取れなかった5点について叱責されたり、半日近くお説教を受ける羽目になるので、それなりに緊張感をもって取り組んでいた。

 

書きながら思ったのだが、今まで生きてきて、父に褒められたことは一度も無いように思う。「そんなものか」「ふんッ」「お前は知恵が足らない」と鼻で笑われる以外、笑顔を向けてくれたことや頭を撫でてくれたことなんてあっただろうか。いやない。(漢語の授業でこういうのがありましたね。懐かしいな。)

 

一方でヴァイオリンのレッスンは段々と厳しさを増して、平日は3~5時間程度、休日ともなれば朝から晩まで練習することも決して少なくなかった。

 

そして父と母の間に亀裂が入りはじめ…というよりも初めから上手く行っていなかった仮面夫婦は、とうとう目に見えて不仲になり、精神状態の悪い母は私にヒステリーを起こすようになった。

 

ヴァイオリンの練習をしたくないとごねる私に、母は「練習をしろ」と怒鳴り、顔面をぶっ叩き、髪の毛を掴んで家中を引きずり回す。さらに私は燃え盛る炎の様に泣き喚いて暴れる。むかつくからだ。理不尽だし。何より痛いし、真冬に家の外に出された時は寒いし悲しいし子供ながらに死んでやろうかと思った。

 

話は戻り、当時の母がよく言っていた「言っても分からなきゃ体で分からせるしかない」というネットにあるエロ広告のような標語、もとい実力鉄拳制裁はそれなりに効果があり、一旦制圧されるとしばらくは大人しく練習をしてみたりもした。

 

加えて母は自分でヒステリーを起こしておきながら、体力が尽きると寝込むという水戸黄門ばりのオチが毎回ついてきており、恐ろしく感じてもいながら、それなりに母を想う気持ちも残っていた私は「私のせいだ」「ごめんなさい」「良い子になるから」と見事に痛い思考パターンが花開した。

 

とはいえ二日に一回は練習拒否の姿勢を取り、鉄拳制裁をくらっていたような気がする。ご近所さんは、気がおかしくなりそうなほど鳴り続けるヴァイオリンの騒音にも参っていたと思う。それに今の時代なら児童虐待で通報されていただろうな。

 

母の恐怖政治はなかなか見事なものだったこともあり、私のヴァイオリンの腕はそこそこに伸びていた。近所の先生のところから、もっと大所帯の先生へ、そしてコンクールに門下生を輩出している先生へとどんどん師事を変えていく事になった。

 

この事が、悲鳴を上げていた我が家の頸動脈をとうとう掻っ切る事になる。